音楽である私

前回あんなことを書いておいてこの話題は、ちょっと憚られるけど、投稿の時期が被っただけ、と思ってほしい



4年ぶりに合唱というものをしました。



もしかしたら、この4年間は物心ついて以来、人生で1番歌うことから離れていた時期かもしれない。
少なくとも音楽から1番離れていたことは間違いない。

ピアノ、金管バンド、コカリナ*1、合唱、ミュージカル…高校を卒業するまでずっと断絶なく音楽に触れていた。掃除機をかけながら、高校へのきつい坂を自転車こぎながら、帰り道に星を見上げながら、歌っていた。
音楽室のピアノの倍音だとか、友達とハモりながら帰ったあの夕焼けだとか、そういうものは私の心の中から消えない。何かふるさとのような光景。



受験生になり、通学でさえも暗記の時間になった。
解放されて大学生になったときは、合唱を続ける気にはなれなかった。いや、それをいうと語弊があるかも。大学の合唱団に入る気になれなかった。それまで毎日を捧げてきたものを、週2回の練習で片付けるのは物足りなくて。傲慢だけれど、それまでやってきた合唱と大学の合唱は、レベルが違うと感じてしまった。まだ、「趣味として」合唱するほどには合唱と離れられていなかった。

(だから、ある意味自分で好きなだけ練習できる体育会の部活に入ったのは、自然なことだったのかもしれない。)


ただ、歌えるのは当然の環境ではない、ということが当時はちゃんとわかっていなかった気がする。浮かれていた気持ちが治まってくると同時に辛さはやってきた。
壁の薄い下宿、今度は思いっきり音を出してもいい環境とピアノがなくなった。アカペラサークルで組んでいたバンドは解散してしまった。
仕方なく、たまに中毒のように欲したときは、カラオケに駆け込んだり鴨川沿いでコカリナを吹いたりした。

溢れる限界になったら堰を解放する、ということを繰り返してどうにかギリギリのところで保っていたけど、その直後は満足しているはずなのに、どこか口寂しかった。何かが足りなかった。




部活を引退して、院進をやめることにして、時間にも心にも余裕ができた。あ、合唱やりたいなとふと思った。部活とは別の、楽しむ合唱をやりたくなった。
運良く、週1回というペース、そして経験者のみ、しかも練習場所が大学から徒歩10分という合唱団*2を見つけた。



久しぶりに思い切り歌って、頭声*3を出した。
声量は1/3ぐらいに落ちてたし、ソプラノのくせに高音で裏返るし、初見能力も落ちていたし、ドイツ語ももう読めなかった。衰えた腹筋*4は震え、声量が小さいくせに息も持たなかった。
前までできたことができないことに苛立ちを覚えながらも、顔がほころんだ。「良い顔してる」ってやつ。好きなだけ声が出せる、自分の声が鳴っていることへの喜び。




そして、それだけではなかったということに、初めて気付いた。
歌、だけではなくて合唱というものが、私の中に、いつからか住み着いてしまっていたのだということに。

合唱を始めたときには、「合唱」である価値を望んでいなかった。「歌が好き」だからその一部の合唱が好きだった。
それが、気が付いたら、そこにしかないものに、私は取り憑かれてしまっていた。



どうやら私は、合唱を介して他者とつながっていたらしい。その繋がりに、ずっと飢えていたらしい。

合唱というのは、なかなかに無防備な行為だ。
大口開けるだけで勇気がいるけれど、その口の奥の喉を開け、目も鼻も最大限に開く。「毛穴も開け」などという指導者もいる。頬骨も眉もあげ、上半身も開く。「大気と一体になる感覚」がなんとなくする。
「こんな、無防備さをあなた方にさらけ出しますよ」


そんな状況だからだろうか、ここにしかない感覚が訪れる。
私の音と隣の子の音、バリトンのあの人の音が融合し、きらめく。時にはぶつかり合いながらも境目がなくなっていき、空気の中で何倍にも豊かになっていく。そして最後にはなくなる。*5
私の肺を通して、声帯を通して、腹から出てくる声は私の1部。声は私そのもの。私から切り離された音ではなく、音という形の私とあの子が交わっているんだ。

「言葉を介せずにつながっている」どんな音楽でも、はたまたチームスポーツでも、その感覚はあるものだけれど、道具を介さず、もしくは自分の体を道具として扱う合唱は、より生々しく、直接的に、その感覚が起こるのかもしれない。

響きや倍音への陶酔とともに、弱い人間同士が繋がりを求め、溶け合っていくことの安心感。最後に消える静寂の刹那。



そのことに気づいた途端、なにか、初めて方程式を理解した時のように、新たな世界が開けた。



この日、実は恥ずかしかった。ひさびさに合唱用の顔をして歌うことに恥ずかしくなった。でも、曝け出してくれる向かいの子がいた。
そこに頼った途端に生まれた感覚。今まで気づかずにいたこと。
合唱から離れていたからこそわかった。

これがわかったから、私はよりよく合唱できる気がする。もっと、他者と一緒にあるからこその合唱ができる気がする。




本来は神に捧げるための音楽でこんなことを思っているのは、不純なのかもしれない。でも私は人間らしく、これからもこの快楽を貪りながら生きていく。

*1:木でできた世界最小の縦笛。ハンガリーの楽器を黒坂黒太郎さんがリメイク(?)して日本に広めた。音域は狭いけど、森の中で吹くと鳥が寄ってくるようなとても綺麗な音色なので、ぜひ知ってほしい。 https://m.youtube.com/watch?v=OIUc0HSUkvE

*2:週1ペースの社会人サークルでは、全体での声や表現の統一以外に時間は割けない。だから、個人で音取りやできる範囲の練習をしてくる能力と気概を持っていないと、質は保てない。学生が自分で広告をとって無料で演奏会をしているというのに、お金を取っておきながら音がどう考えても外れていたり、ただ声を気持ちよく出す人の集まりの、合唱とは呼べない団体が残念ながら多くある。この合唱団は、そういう意味でレベルが高くて気に入った

*3:専門用語ではなさげなのだけれど、合唱に使われる、胸より頭に響かせる声。裏声に近いかな?裏声と違うのは、低い音域でも出せるとこ

*4:久々に歌って、実はかなり消耗する&筋肉の細かいコントロールが必要なんだってことを実感した。

*5:"鳴っている間だけが 私が音楽として存在している時間"っていうフレーズを思い出した。(『音楽である私』より)