ウインドのこと、部活という場所のこと。

今回ばかりはかなり私情の入った整ってもいないヤバい文章を投稿します。
もう1つのブログはむやみに晒せないけどこれはもうちょっと多くの人に読んでもらいたかったので。

〈〉の中を読むと、さらに私がかっこ悪くなります。()の中は、さらに文章がダサくなります。



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正直、ウインドサーフィンという競技を選んだのはミスだったなぁと思っています。
もっと自分が得意で大好きなことをやってた方が幸せだったし伸ばせたと思う、そんな意味で。

試乗会でちょっと乗れたからって、あの布を張ったおもちゃと先輩方が操っているTechno293は別物だということぐらいわかったはずなのに…
先輩方の眩しさに目を奪われて、
何かの血の迷いで2回目の新歓で入部宣言をしてしまいました。
本当に、アホで頭弱くて恥ずかしいです。

(たまたまウインドサーフィンってものを知ってて、勧誘もされてないのにわざわざ自分から飛び込みに行って、しかも1番最初に体験したのがここで、タチ悪いわ自分って思う。最初に行ったのが某アカペラサークルだったら、入っていなかったかもしれない。最初にウインド知ってしまったから、どっちも諦めきれなくなった)



別に1回生のときは格段にリザルトが悪かったわけではないし、「今苦労した分4回生で入賞してやるんだから」って思っていました。自分が小学生の体しか持ち合わせていないことも、運動苦手なことも、効率悪い人間なことも、わかってた。はずでした。
でも、辛抱できなかった。新人戦が終わって糸が切れて、そこまで堪えてたものがダメになった。
起きてしまったことも、自分の気持ちの変化も、仕方がないことなんだから、もっと自分と向き合えばよかった。
それでも、ちゃんと教習通っておけば、あの時1週間も休まなかったら、ちゃんと横着せずにカッターを使っていたら、バイト続けてたら、浮かれたりしなかったら、って思ってしまうのも事実で、それはやっぱりまだ私の中にある弱さなんだろうなと。
全ての自分の甘さがあの時に露呈して、それに耐えることも向き合うこともできませんでした。

心の問題、とは言ったけれど、このときに踏ん張れなかったのは、1番は私がウインドサーフィンを好きではなかったからです。
そして、好きでないものに対して努力できるような精神力や信念が私にはなかったから。そのことに気づいていなかったから。(この文章を書きながら初めて気づいていることもいっぱいあります。話がチグハグなのは、それを足したり消したりしてるから。書くことで、整理しながら決着をつけている、そんな感じです。)


このときちゃんと練習していれば後輩に引け目を感じてしまうほどリザルトを落とさなかっただろうし、予選通ったんだろうと思うと、この時の自分に怒りが湧きます。

一方で、当時の私にとって部活は恐怖で、他も全て苦しくて逃げ場がなかったから、しょうがなかったんだろうな、とも思います。(唯一の癒しはiATでした、相談のってくれてありがとう!みんなで卒業旅行しようね!)
物心ついた頃から私の中に住み続けている、もはや一部になってしまっている呪いがあるのだけれど、いろんな不安定さからそれが私の中を満たしてしまって、その影響が1番モロに出ちゃったのがウインドでした。

ぐちゃぐちゃの床で、電気もつけっぱなしで寝てしまうことが多くて、朝は当たり前に具合が悪くて、朝発はなかなか行けませんでした。そのくせして、前はこのぐらいの熱できたのに、本当は平気なのにって夜は自己嫌悪で、翌朝また布団からでれなくて。本当に、「練習しなければいけない」朝が来るのも見えないものに追われる夜も、嫌でした。
今となっては、全て「あの時に比べたらマシ」って笑えるんですけどね。


その時の原因はウインドだけではなくて、でも他のものは最低限しなければいけないこと・自分の意思だけではどうにもならないこと、であったとするならば、最優先で辞めるべきだったのはウインドだった。ラウンディングでも最下位走り続けて、更に言えば(今だから言えることですが、)セッティングもまともにできないようなボロ道具で乗っているぐらいのやる気のなさで、周りにも迷惑だったと思います。(3回生の間も迷惑だったとは思います。やる気はあっても結果が出せなければ意味がない。そういう場所だったはず。)




でもやめられませんでした。


それは、同期には言ったことがあるけど、「途中でやめることはかっこ悪い」という私の中の悪い概念のせいです。
何回もりきやさんに「相談したいことがあります」って文字打つところまでいって送信できなかったのは、私に勇気がなかったからで、体裁を気にしていたからです。
「次の目的もないのに辞めるのは逃げだ」っていう後ろめたさもあったし、今まで、そういう選択肢はいけないんだって、なんとなく刷り込んできてしまったんだと思う。それに、続けることにだって意味があるんだって思いたかった。
〈この時初めて気付いたけど、私は何かより魅力的なものを始めたり頑張るために既存のものを捨てることはできたけれど、何もないのに1度始めたことを辞める、ということが苦手なんだとおもいます。というより、今までの人生でしたことがない。むしろ、あえて逃げ道を塞ぎながら生きてきた節がある。(これが不器用ってことなのかも)
だけど、向いていないものや辛いことを続ける、というのは、成長を阻害することでもあるし、自分が壊れてしまうこともあると思う。だから、向いていないと思ったらきっぱりやめるとか、本当にヤバいときには「逃げる」という選択肢を持てるようにならないといけない。この先の目標です〉

そうやって、居座り続けました。



そうこうしているうちに時間が経っていて、他の問題も解決し始めて、「私は辞められないんだ」と諦めがつくようになった。そこからはなんだか肩の力が抜けて、3回生で辞めるなりに、前向きにウインドサーフィンできたつもりです(ウインドに意味を見出せなくなっていたのは、当時行きたかった未来のためには3回生で引退しないととてもじゃないけど間に合わないという現実に気付いたから、というのが大きかったです。最初から4回生まで続けてなんとか結果残してやるというつもりだったので)。周りから見たら相当甘かっただろうけど。
予選に落ちたらもう部活に行けないと思っていたけど、当日泣いたら案外けろっとしていたのは、そのときから「引退するときに後悔しないようにしよう」っていう意識があったからなような気がします。



もう1つの辞められなかった原因は、自分のいた場所が京大ウインドサーフィン部だったから。



いろんな(ウインド以外の)人に相談して、「やめた方がいいんじゃない?」「やめても大丈夫だよ」って言ってもらったのに結局やめられなかったのは、この集団に身を置きたかったからなんだと思う。うまく言えないけど。
それが、なんというか、きっとこの3年間の全て。バカな私の中のゆずれない部分だったのかなと。


だから、もう1回4年間この大学で過ごせるってなったらアカペラするし留学するだろうけど、もう1回19歳の春に戻せるのなら、また京大ウインドサーフィン部を選んでしまうと思う。
ここは、そういう存在でした。


めっちゃネガティヴなこと書いているようにみえるんですけど、ウインドサーフィン部に入ったことは後悔していません。さっき書いたように、私はこの中に居たかった。
普通にレースとしてウインドサーフィン楽しい(3〜8mに限る)し、後輩とか同期の成長見ると嬉しいです。楽しめてなかった頃の自分、もったいないな…

それに、団体優勝できて、嬉しかったです。



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3年間の区切りであると同時に、これは9年間の区切りでもあるなぁってなんとなく思ってます。
9年間、1番濃く付き合ってきたのは部活の人たちだったから、それ抜きで私を語ることはできない。部活を通して私は人間になりました。


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(中1の時入っていた水泳部は、妥協で入ってしまってあまり思うところがない、、)

中合唱部は途中入部しました。送別音の演奏を聴いた時、「私は歌わなきゃダメなんだ」って衝動に駆られた。辞めることが苦手で人見知りな私が、それでも新たな場所に飛び込むという選択肢を取りました。

本当は、入学当初から合唱部は念頭にありました。なのに体験すら行けなかったのは、自分が音痴だという自覚があったから。それぐらい、歌は好きと同時に、コンプレックスでもあった。やっぱり入部当初の私はとても下手で、最初個人指導してくださっていた先輩も困った顔をしていて(優しい先輩でした)、本当に申し訳なくなりました。


そんなだったけど、数ヶ月でNコンメンバーに入れたときは、すごく嬉しかった。
〈これが多分私の中で1番の成功体験で、あのときの方法や考えていたことをウインドに応用できればよかったのだけれど…
経験もなく途中入部した自分が劣っているのは当たり前で、「追い付こう」っていう気概があったのに対して、スタートラインが同じウインド入ったときは、「どんどん離されてく…やっぱり運動向いてないんだ」って、比較してただただ焦って潰れていってしまったのがよくなかったんだろうな。本当に、自分を見てなかった。〉

毎朝音楽室に一番乗りして、昼休みのために給食も時間内に食べられるようになって、家に帰ってもピアノに向かった(私が超早寝早起きするようになったのはこれが原因です 笑 朝部活が始まる3時間前には起きておきたかったし、喉がほぐれている夜に歌って頭が回る朝に勉強するのが1番よいと思ったから。) 。休みの日も絶対1番最後まで残らないと気が済まなかった。

最初はただ足を引っ張らないように、同期に追いつけるように必死に始めたことは、気づいたら2年間習慣になっていて、そのことが私に自信をくれました。
それ以上に、ハモれるようになっていくことに、自分の声が太さと深みを増していくことに、夢中でした。



普通に「自分がんばった!」みたいに書いているけれど、頑張れたのはみんなのおかげで。最初の頃、下手な私につきあってハモってくれたり、見てくれていた同期のみんなには頭が上がらない。
それに、当時人見知りの最盛期でクラスの中でも浮いていたし、学年でもまぁ変な噂が流れていた私を受け入れてくれたことに感謝しかありません。
好き!って屈託なく言ってハグしてくれる子たちに、心をほぐしてもらった。
最初の頃、すごいくすぐったかったけど嬉しかったです。

ここで緊張しないでいられる空間ができて、私はだんだん柔らかくなっていけたと思う。


そんな仲間と全国大会へ行けたことがやっぱり1番嬉しかったことです。
顧問の先生が変わって、最初はお互いに不安だったと思う。それでも信頼を築きあげて、みんなで神戸の空を見れたことが嬉しかった。(学校の都合で、私たちは顧問の先生が3年とも違う代でした。その中で3年連続全国に行けていたのは、本当にすごいことだと思う、、)
明日が最後かもしれない、という中部支部前日に先生が歌ってくれた3月9日を聴いてみんなで号泣していたこと。翌日1位の演奏できた時、まだみんなと歌える時間を延長できた時の喜び。
そして、心待ちにしていた神戸の空と、あの「最後」という念のこもった合唱は、今でも鮮明に思い出せます。
定期的にDVD見直すけど、演奏も、先生も含めた仲の良さの伝わる撮影風景も、めちゃくちゃ好き 笑(あのほのかちゃんのインタビュー神すぎませんか)

本当に、後にも先にもない経験をさせてもらいました。



なんでかわからないけど、附中合唱部のことは、すごく感覚的な記憶が多いです。
朝、こもった音楽室の窓を開けた瞬間に入ってくる空気の清々しさ。
陽が射してきらめくピアノ。
斜腹筋するときの廊下の冷たさと暗さ。尾てい骨の痛み。
女の子たちの甘い匂い(変態チックだけど結構共感者いるはず)。
結果発表で隣にいる仲間が握ってきた手の痛み。
音楽室の倍音
ホールに響き渡る残響。

こういうものは、写真やDVD以上に、死ぬまで私の中に痕跡を残しているんだろうなって気がします。


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高校は最初っから長野高校行って合唱班入るんだって決めていました。
偏差値云々より、合唱のために長野高校行きました。

コンクールの数曲を煮詰めていった中学とは違って、1日で数曲音取らないといけないのはやはりそこまで音の感性のない私にとっては大変だったし(3年間で200曲近く歌っているのではなかろうか)、60人もの大所帯とは違って特に男声の人数は少なくてコンクールは苦労したけど、仲の良くて信頼できる仲間ができました。
同期みんなで引退できて嬉しかった。あれだけハードな環境で同期11人、誰1人やめずってそうそうできることじゃない。

これは、ちょっとうざいぐらいに個人に関わってきてくれた顧問の先生と、心を開示するという合唱の性質(合唱は信頼性とか集団の雰囲気というのが、もろ演奏に出るから、本音でぶつかるしかなかった。人数が少なければ少ないほど。あと、曲や歌詞の解釈をする中で、自然とお互いの中身が暴かれてしまう感じがする。大口開ける、という無防備な行為でもあるしね)、そして曲決め始めなんでも徹底して納得するまで話し合う風土のおかげだと思います。


その話合いを1番割いたのが定期演奏会で、その中でも企画ステージで、それを作り上げる中心にいれたことは、とても幸せでした。
曲決め、キャスト選びから始まって、曲順、つなぎのセリフ一字一句、効果音、照明、小道具、立ち位置、衣装、ダンス、全て考えるのはまぁ大変だったし、個の強い3人(主に2人)で毎日のように険悪な雰囲気になった時期もあったけど、とても充実感がありました。
それに、班室で教頭先生に見つからないよう息を潜めたり、親には言えないような時間までサイゼで作業したりとか、変なテンションで笑いが止まらなくなったりとか、これぞ青春という感じに酔ってた節もある 笑
定演前の数ヶ月、家族より誰よりも一緒にいたよね。

いっつもダラダラ喋る私が、あの打ち上げでなんで簡潔に終わったかって、それはもう、喋ることの優先順位がわからなすぎたから。言いたいことがいっぱいありすぎたから。
後輩先生含め、みんなで作りあげたものを、そこに一瞬の形として残せたことが、とても嬉しかった。落ち込んだときに定演のDVD見て笑い泣きするのが、好きです。
それと、あのときの達成感は、私の好きなことを、人のためにできることを、教えてくれました。


合唱班で1番思い出すことは、「言葉」かもしれません。それも、感動的な引退の挨拶とかそんなんではなく、日常の。
練習の中で出てくる意味わかんない歌い方のイメージとか、
ミーティングした後の雑談とか、
その中から生まれた合唱班ワードとか迷言とか。
定演のアドリブ場面とか最高。
もう、あの癖の強い人たちが混ざり合う空間、退屈するわけがなかった。

あとは、その人の性格そのものが強く焼きついていて。
久々に会ったら、その人の中の新しい部分とやっぱり○○だなぁっていう部分を見つけるのがとても楽しい。


今でも弱味見せられるし、私のことを誰よりもわかってくれている人たちなんだなぁって思ってます。
(私の死ぬまでにやりたいこと100選に、また11人で歌うっていうのがある。どこかで叶えさせてほしいな。みんなの職種柄、難しいことは百も承知だけど)


そして班活で燃え切って、いろいろ思うところがあって、京大めざしました。
数ヶ月間班活しかしてなかったから、成績はボロボロだったけど、ビックリするぐらいうまく切り替えられました。結局微妙に足らずに1年目は落ちちゃったけど。

同じ志望校いなくて、閉鎖的で、人の悪口聞きながら1人でお弁当食べていた浪人期、頑張れたのは本当に合唱班の誰かと会える数ヶ月後を目標にして息をつないでいたからです。大袈裟じゃなく、ね。(他のコースに数人仲良くなれた人はいたけど、自分のコースの人とは仲良くなりたいとすらとても思えなかった…)
あとは、後輩を指導しに行くことで自己肯定感をあげたり息抜きしてたかな 笑



(ここまで熱入れて合唱のこと書いておいて、なんで合唱続けなかったの?って思われるかもしれないけど、入りたい合唱団かミュージカルサークルが近くにはありませんでした。自分の大学だけでなく、他の関西の大学や、社会人の団体も調べたけど。どうしても、中・高ほどの熱意・レベルを持っているところがなかった。自分で作るっていうアイデァは当時持ち合わせていませんでした 笑)


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そこで受かった京大で、ウインドサーフィン部に出逢いました。
散々書いたように、この3年間で自信になるようなものは何も、積み上げられなかったです。

性格的にも、合唱やってた時ほど中身同じ、共感できる、って人はいなくて。個人競技だし。
同期とか、いやもはや先輩後輩含めて全員ウインド入ってなかったら、友達にならんわ。キラキラしすぎてるし。ただの別世界の人。(そういう世界と交れてよかったなぁーみたいな他人行儀な感想も、今持っています)
そもそも体育会系というものに合わないんだと思う。
ストイックとかそういう意味ではなくて。(サークルだから緩い文化系だから礼儀がなってないみたいなマウンティングはめっちゃ嫌いです…) フィーリング的に。

でも、ここにはあたり前に努力できる人たちがいて、自分を信じ切る人たちがいて、有言実行無言実行する人たちがいて、やるべきことを全てやれている人たちがいて、尊敬しています。同年代でこんなに尊敬できる人たち、初めてでした。
「個」でここまで強い人たちが揃っている集団は、なかなか無いと思う。

あと、ウインドに入ったときに「また全国大会を味わってみたいな」って気持ちがちょっとあって。自分自身ではそこに全く届かなかったけど、団体戦で優勝して、そこに関わらせてもらえたことが幸せです。


最後のモラトリアム、自分の成長の場としては失敗したのかもしれないけれど、うーん、なんというかな、ここにいれてよかったって思うから、それでいいんかなって。
この文章書いてて、途中、救いようなさすぎてヤバいってなったんですけど、文章汚い!ってなって書き直しているうちに、もうちょっと自分を見つめられるようになってきて(結局書き散らかしていて文章はまとまってません 笑)。ここも1つの居場所なんだなぁって思えるから、この3年間は意味があったのだと。

それに、今、将来のことを考えていると、これは長い私の時間の中の1つだって思う。うまく言えないけど。
モラトリアムが最後だからって、「本気でできる最後のチャンス」をうまく活かせなかったなぁ、というつもりはないです。(新歓のPVだか誰かの言葉にそんな文句があったような気がしないでもない。すみません。)
ここでのことは、私の一部になっていくんだなって、その先にある自分を見たいな、って、そんな感じの気持ち。(うーん、強がりっぽいかもしれないですね。)

どうしても、この3年間が正解だったんだろうかって考えちゃって苦しくなるときもあるんですけど、多分まだ今はどっちでもないのかなと。この先の私次第なんだという感じがする。この3年間のことを無駄にせず、私が幸せだと感じれるようになったら、そのときにきっと正解になるんだろうなって。思想強いですかね 笑


今年も同期は続けているし、正規練行くし、まだウインドサーフィン部は私の中で過去になりきってはいない。あと5年したら、どんな形で残っているのだろうと思うと、楽しみです。


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こうして振り返ってみると、私、ずっと部活に支えられてたんだ、成長させてもらったんだって改めて思います。
そして、それは人に恵まれていたからで、9年間そういう形で人と巡り会わせてくれた「部活」というものが、好きです。他で間違えていたとしても、人に関しては、何も間違っていなかったと思う。
9年間も、こんな生活を続けられたことが幸せです。

それと、部活特有の、「仲間」っていう関係がすごく気に入っています。とある人が色紙に「最初合わなすぎてどうしようかと思ったけど」的なことを書いてくれたのだけれど、まさにそれだなって。
お互い気にくわないところがあっても、同じ方に進んでいく、その中で気付いたらお互いを受け入れている、そんな関係が好きです。


大学だけじゃなくて、高校も勉強と両立できなくてやめようと思った時期もあったけど、部活やってよかった!っていうのが素直な感想。



そして、最近は、次はその場を仕事にするんだろうなって思い始めています(すみません、院進のために引退したけど就職します)。
こうやって過ごしてきたのに、これから先なんとなくで生き続けるのは耐えられないというか 笑
本来部活は「学業の傍」のものなんだろうけど、生活の中心は、部活でした。
次にはさすがに「サークルの傍で仕事をする」なんて甘いことはできないと思う。大学の勉強ですら、部活の傍ではうまくできなかったから。
だから、今まで「部活」の立ち位置にあったものを、今度は仕事にします。


今は、次の居場所とか、何か「本気」の場所を作るための準備期間のつもりです。息抜きも兼ねながら。


正直、私は不器用な方だし、その上知識の蓄積も勉強も止めてしまったせいで、「それで京大生?」って思われてしまうような人間だと思う。
甘いことを考えていると思われても仕方ないと思う。


それでもこの先40年、大半の時間を「忙しい」「やりがいがない」なんて思いながら過ごすのはつまらなすぎるでしょう?