部活を引退して変わったこと

お久しぶりです。yuです。

今までの投稿、なんだか、文も内容も内向きすぎだなぁ〜って思ったので、しばらく丁寧語を使いたいと思います!文体って、気分まで作っちゃうから不思議ですよね。


さて、今回は部活引退後のことについて書いていこうと思います。なんでこんな微妙な話題なのかというと、とりあえずサクッと文章をいっぱい書きたい!と思ったからです。

本当はネタはいくつかあって、並行しながら書いているのですが…自分の中で整理しきれていなかったり、調べている文書が難しくて進まなかったり…
良い記事を書けるようになるには、文章のセンス以前に、その前段階のプロセスに対する練習や経験がめっちゃ必要なんやと感じています。

で、結局、前回更新から2週間以上経っちゃって、あまり文章を書けていなかったので、とりあえず今書けることを書いておこう!と思い至りました(笑)



近況報告も込めて、いくつかの観点から、現役時と引退後の変化を書いていこうと思います。

ちなみに、私は京都の大学でウインドサーフィンという体育会系の部活に所属していました。
プレイヤーとしての引退(最後の自分が出場した大会)は12月初め、その後は幹部としての役割などは持ちながら微妙な立場で週1回ずつほど練習を手伝いに行き、3月の団体戦で自分の役割は全て終えたかな?という感じです。





1. 時間の使い方

やはり、時間の使い方はかなり変わりました。



授業期間の場合、平日は6hの練習に3回ぐらい、休日は1日中部活だったので、18+12×2(お昼と夜ごはん分を1hずつ除きました)=42hほどを毎週部活につぎ込んでいたわけです。


さて、その42hは今、何に使われているのか?

①バイト
来年の生活費を自分で稼がないといけないので、バイトを増やしました。
週1,2回(平均をとって、移動時間を含めると4.5hほど)→週4回(移動時間含めて12hほど)…7.5h

ちなみに、全てかてきょです(笑)
本当はカフェなどもやってみたかったのですが、気づいたらこうなっていました。


②サークル
急に歌いたくなって、高校の部活ぶりに合唱を始めました。基本的に週1回練習の社会人サークルです。
0→3h


目に見えて増えたのは、この計10.5h。

この1ヶ月、残りの31.5hは何に使っていたのでしょうか?


③勉強

残念ながら、自分の怠慢のせいでこの4年間のコマ数は変わっていないのですが、今まで授業の合間に部活に行っていたのが、何もなくなりました。
その分、今までやっつけでやっていた課題に時間をかけるようになりました。

また、勉強したい欲が湧くようになってきたので、英語や漢字を勉強しようと思っています。あ、思っています、というのは、まだあんまりできてないから、です。

具体的には、英語は今週4hほどかな?とりあえず受験時に愛用していた単語帳、「DUO」をやり直してます。来年にTOEIC900超えたいな…

漢字も来年、準1級を受けたいと思っています。実は中3の時に一回受けたのですが、77%とかで落ちてしまったんですよね…もったいないので、合格してやります。

が、まだ始めていません。というのも白文帳がないからです。長野県民ゆえ、白文帳以外で漢字勉強したことがないんですよね、、他県の皆さんは何で練習してるんでしょう?
小学校で使っていた漢字練習帳はマスが大きすぎるし、キャンパスノートは漢字の練習には向いてなくないですか?
(ぜひコメントで教えてほしいです!!!!)

そんなわけで、今月末に両親と会うときに買ってきてもらう予定。

こんな感じで、増えたようにも見えるんですが、実は去年の方が毎週実験レポートが2つほどあって大変だったので、あまり変わってないかも?しれません。

ちょっとずつ量を増やしていこうと思ってます。


④趣味・娯楽

DIY・散歩・料理あたり。
それから、ここぞとばかりに今まで会えなかった人と遊んでます。


⑤インプットとアウトプット

これは、うまくいうことができないんですが…③の一部になるかもしれません。
このブログもそういう目的のために作っているんですけど、文章・伝えることが上手になりたいなって思ってアウトプットを始めました。あと、私はもともと書くことでものが整理できるタイプなのですが、この3年間それをおろそかにしてきたせいで自分のことがわからなくなってきてしまったんですよね。書くのは私に必要なことなんです。

ということで、紙でも電子でもいいので1日1000字ほど書いてます。
そして、アウトプットをするのに必要になったインプット(資料の読み取り)、そして、就活含めとにかく人生のヒントを集めるために色々読み漁っています。

2つ合わせたら毎日2hぐらい使ってると思います!
ただ、どっちもスマホでほとんど済ませているので見た目が悪いんですが(笑)

読みたい本も溜まっているので、大学の図書館だけでなく府立図書館へ行ったり、アウトプットにPCを使うようにして、もうちょっと、それっぽくしたいですね。


⑥ランニング

2週間前ぐらいからですが、走りはじめました。
今のところ2日に1回ぐらいだけど、なんとか続いてる。
そして、朝に走るともれなくシャワーを浴び(てドライヤーしてボディケアし)なきゃいけないので、全部合わせると1時間ちょっとはかかるんですよね。



といった感じで、いろんなことにちょこちょこ分散して使っているわけですが、まぁグウタラしている時間も多くて、冷たい目で見ている人もいるかもしれないなぁって思う。というか、自分が1番そう思ってしまって嫌なので、有効に使いたいと思います。
ちょっとずつね。とにかくいろいろ勉強しようと思ってます。


まぁ、ここから毎週土日のどっちかは練習見に行くし、合唱の方もちょっと忙しくなるので、いい感じにメリハリ付く…はずです。


あとは、活動時間帯も変わりました。

今までは、
平日 ▷昼間は授業or練習、夜は週1,2でバイト
土日 ▷1日中部活(8:00〜22:00ぐらい)
だったのが、
平日 ▷昼間は授業+α勉強、毎晩バイトorサークル
土日 ▷バイト+趣味など
となって、かなり夜が埋まるようになりました。

ここ20日ぐらい、気づいたら夜が全部埋まってて、ちょっと焦燥感みたいなのが出ています。何が困るって、食事。コンビニ食が増えてしまって、食事の質と時間・経済面・生活の質が落ちていてよろしくないです。これは要対策ですね。



2. 見た目



身もふたもないような話ですが…

※因みに体重・体脂肪は変わってません。3月は減ってたんですが、4月以降、多分食生活が乱れているせいで減ってくれない…


まず、10人ぐらいから「かわいくなった&痩せた」って言われました。
自分でも写真とか見ると、だいぶマシになった気がする!

これは体感の話なのですが。恐らく、部活をしていた間は、上半身、特に顔がむくんでいたんだと思います。
スポーツ自体がむくみやすい上に、土日は疲れてお風呂も入らず床で寝ちゃってたりしたんですよねぇ…あと、ずっと水上にいるから水分控えていたせいもあると思います。

ちなみに数値的には、バストのアンダーが減りました。ここ1年ぐらい70だったけど、65に戻りました。


意外と運動不足によって太った、みたいな実感はないです。むしろ体が重い感覚が少なくなりました。なので喜んでいたんですが…密かに太っていた部分がありまして。


エスト〜太ももにかけてが太くなりました。
最近はけないズボンが出てきた。

上半身が入らなくなるものはいくつかあったのですが、下半身が入らなくなるのは初めてで、さすがに焦りました。
多分、ひねる方向の動きがなくなったから脂肪ついちゃったんかなと。あと、単純に寝ころぶことが多くなった。
走り始めたので1ヶ月ぐらい経ったら元に戻ってくれると信じています。


あとは、
白くなりました。あそこまで焼けると白くなるのには1年かかると思ってたんですが、4ヶ月でかなり元の色に近くなりました。
今まではメイクに絶対オレンジ系しか使わなかったのが、他の色を使えるようになって嬉しいです。

それだけでなくて、毎日最低限のメイクをするようになったり、きちんとした服装ができるようになって、単純に女子力があがりました(笑)

1日部活の日はジャージだし、平日も練習ある日は着替えやすさ優先+汚れてもいい服しか着ていなかったので、当然メイクもヘアメイクもする気にならなかったんですよね。

同じく引退した女の子が「社会性があがった!」って言っていましたが本当にその通りで、ノーメイクで人前に出るのは恥ずかしいし失礼だっていう気持ちが出てきました。


多分総合的に見た目はマシになってきているから、ダイエットがんばろうと思います。



3. 気持ち


端的にいうと精神面、安定しました。

私には負荷が大きすぎたのかな。別に悪いことだとは思わないけど、泣くこと少なくなったしね。


精神面が安定したのは、自尊心が前よりできてきているからやと思います。

で、その主な要因は
①傷つくことが少なくなった
②心に余裕ができた
③自分をいたわる時間が増えた
ことです。

① 1つだけあの部に文句言わせてもらうとしたら、人の気持ちに無頓着すぎる・配慮がない人が多い。相手に悪気がなくとも傷ついたり、「お前は何もできない」っていう念が私を支配するようになってしまっていました。
ただ、ほとんどの人はそれを気にしていないんですよね。
だから、もう、ウインドにいる多くの人と世界が違かったんやな、私が紛れ込んでしまったんやなって感じです。

②=時間・お金の余裕と、好きなことをする時間が増えた。
自分を甘やかさないとダメな人間でした。

③自分と向き合う時間が増えたこと、あと、体を丁寧に扱うようになりました。
特に男性には理解できないって方もいるかもしれませんが、体のケアやネイルに時間をかけたり、服を選んでそれにアクセサリーをあわせて化粧するっていうプロセスによって、なんだか自分のことを蔑ろにしにくくなるんです。
自分の体に時間をかけてあげることで、大切にできるようになるのかな。

(この感覚をうまく言葉にできなくて、もどかしく思う)



大体の変化はこんなかんじです。



院試のためって言って3回生でやめたくせにこんな感じで申し訳なかったんですけど、この前「やめなきゃよかったっていってる奴が1番嫌。楽しんでくれてたらいい」って言ってもらったんで、私らしく、充実した時間を過ごしていきたいって思います。



長くて何の有用性もない記事になっちゃいましたが、これでおしまい!

音楽である私

前回あんなことを書いておいてこの話題は、ちょっと憚られるけど、投稿の時期が被っただけ、と思ってほしい



4年ぶりに合唱というものをしました。



もしかしたら、この4年間は物心ついて以来、人生で1番歌うことから離れていた時期かもしれない。
少なくとも音楽から1番離れていたことは間違いない。

ピアノ、金管バンド、コカリナ*1、合唱、ミュージカル…高校を卒業するまでずっと断絶なく音楽に触れていた。掃除機をかけながら、高校へのきつい坂を自転車こぎながら、帰り道に星を見上げながら、歌っていた。
音楽室のピアノの倍音だとか、友達とハモりながら帰ったあの夕焼けだとか、そういうものは私の心の中から消えない。何かふるさとのような光景。



受験生になり、通学でさえも暗記の時間になった。
解放されて大学生になったときは、合唱を続ける気にはなれなかった。いや、それをいうと語弊があるかも。大学の合唱団に入る気になれなかった。それまで毎日を捧げてきたものを、週2回の練習で片付けるのは物足りなくて。傲慢だけれど、それまでやってきた合唱と大学の合唱は、レベルが違うと感じてしまった。まだ、「趣味として」合唱するほどには合唱と離れられていなかった。

(だから、ある意味自分で好きなだけ練習できる体育会の部活に入ったのは、自然なことだったのかもしれない。)


ただ、歌えるのは当然の環境ではない、ということが当時はちゃんとわかっていなかった気がする。浮かれていた気持ちが治まってくると同時に辛さはやってきた。
壁の薄い下宿、今度は思いっきり音を出してもいい環境とピアノがなくなった。アカペラサークルで組んでいたバンドは解散してしまった。
仕方なく、たまに中毒のように欲したときは、カラオケに駆け込んだり鴨川沿いでコカリナを吹いたりした。

溢れる限界になったら堰を解放する、ということを繰り返してどうにかギリギリのところで保っていたけど、その直後は満足しているはずなのに、どこか口寂しかった。何かが足りなかった。




部活を引退して、院進をやめることにして、時間にも心にも余裕ができた。あ、合唱やりたいなとふと思った。部活とは別の、楽しむ合唱をやりたくなった。
運良く、週1回というペース、そして経験者のみ、しかも練習場所が大学から徒歩10分という合唱団*2を見つけた。



久しぶりに思い切り歌って、頭声*3を出した。
声量は1/3ぐらいに落ちてたし、ソプラノのくせに高音で裏返るし、初見能力も落ちていたし、ドイツ語ももう読めなかった。衰えた腹筋*4は震え、声量が小さいくせに息も持たなかった。
前までできたことができないことに苛立ちを覚えながらも、顔がほころんだ。「良い顔してる」ってやつ。好きなだけ声が出せる、自分の声が鳴っていることへの喜び。




そして、それだけではなかったということに、初めて気付いた。
歌、だけではなくて合唱というものが、私の中に、いつからか住み着いてしまっていたのだということに。

合唱を始めたときには、「合唱」である価値を望んでいなかった。「歌が好き」だからその一部の合唱が好きだった。
それが、気が付いたら、そこにしかないものに、私は取り憑かれてしまっていた。



どうやら私は、合唱を介して他者とつながっていたらしい。その繋がりに、ずっと飢えていたらしい。

合唱というのは、なかなかに無防備な行為だ。
大口開けるだけで勇気がいるけれど、その口の奥の喉を開け、目も鼻も最大限に開く。「毛穴も開け」などという指導者もいる。頬骨も眉もあげ、上半身も開く。「大気と一体になる感覚」がなんとなくする。
「こんな、無防備さをあなた方にさらけ出しますよ」


そんな状況だからだろうか、ここにしかない感覚が訪れる。
私の音と隣の子の音、バリトンのあの人の音が融合し、きらめく。時にはぶつかり合いながらも境目がなくなっていき、空気の中で何倍にも豊かになっていく。そして最後にはなくなる。*5
私の肺を通して、声帯を通して、腹から出てくる声は私の1部。声は私そのもの。私から切り離された音ではなく、音という形の私とあの子が交わっているんだ。

「言葉を介せずにつながっている」どんな音楽でも、はたまたチームスポーツでも、その感覚はあるものだけれど、道具を介さず、もしくは自分の体を道具として扱う合唱は、より生々しく、直接的に、その感覚が起こるのかもしれない。

響きや倍音への陶酔とともに、弱い人間同士が繋がりを求め、溶け合っていくことの安心感。最後に消える静寂の刹那。



そのことに気づいた途端、なにか、初めて方程式を理解した時のように、新たな世界が開けた。



この日、実は恥ずかしかった。ひさびさに合唱用の顔をして歌うことに恥ずかしくなった。でも、曝け出してくれる向かいの子がいた。
そこに頼った途端に生まれた感覚。今まで気づかずにいたこと。
合唱から離れていたからこそわかった。

これがわかったから、私はよりよく合唱できる気がする。もっと、他者と一緒にあるからこその合唱ができる気がする。




本来は神に捧げるための音楽でこんなことを思っているのは、不純なのかもしれない。でも私は人間らしく、これからもこの快楽を貪りながら生きていく。

*1:木でできた世界最小の縦笛。ハンガリーの楽器を黒坂黒太郎さんがリメイク(?)して日本に広めた。音域は狭いけど、森の中で吹くと鳥が寄ってくるようなとても綺麗な音色なので、ぜひ知ってほしい。 https://m.youtube.com/watch?v=OIUc0HSUkvE

*2:週1ペースの社会人サークルでは、全体での声や表現の統一以外に時間は割けない。だから、個人で音取りやできる範囲の練習をしてくる能力と気概を持っていないと、質は保てない。学生が自分で広告をとって無料で演奏会をしているというのに、お金を取っておきながら音がどう考えても外れていたり、ただ声を気持ちよく出す人の集まりの、合唱とは呼べない団体が残念ながら多くある。この合唱団は、そういう意味でレベルが高くて気に入った

*3:専門用語ではなさげなのだけれど、合唱に使われる、胸より頭に響かせる声。裏声に近いかな?裏声と違うのは、低い音域でも出せるとこ

*4:久々に歌って、実はかなり消耗する&筋肉の細かいコントロールが必要なんだってことを実感した。

*5:"鳴っている間だけが 私が音楽として存在している時間"っていうフレーズを思い出した。(『音楽である私』より)

ウインドのこと、部活という場所のこと。

今回ばかりはかなり私情の入った整ってもいないヤバい文章を投稿します。
もう1つのブログはむやみに晒せないけどこれはもうちょっと多くの人に読んでもらいたかったので。

〈〉の中を読むと、さらに私がかっこ悪くなります。()の中は、さらに文章がダサくなります。



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正直、ウインドサーフィンという競技を選んだのはミスだったなぁと思っています。
もっと自分が得意で大好きなことをやってた方が幸せだったし伸ばせたと思う、そんな意味で。

試乗会でちょっと乗れたからって、あの布を張ったおもちゃと先輩方が操っているTechno293は別物だということぐらいわかったはずなのに…
先輩方の眩しさに目を奪われて、
何かの血の迷いで2回目の新歓で入部宣言をしてしまいました。
本当に、アホで頭弱くて恥ずかしいです。

(たまたまウインドサーフィンってものを知ってて、勧誘もされてないのにわざわざ自分から飛び込みに行って、しかも1番最初に体験したのがここで、タチ悪いわ自分って思う。最初に行ったのが某アカペラサークルだったら、入っていなかったかもしれない。最初にウインド知ってしまったから、どっちも諦めきれなくなった)



別に1回生のときは格段にリザルトが悪かったわけではないし、「今苦労した分4回生で入賞してやるんだから」って思っていました。自分が小学生の体しか持ち合わせていないことも、運動苦手なことも、効率悪い人間なことも、わかってた。はずでした。
でも、辛抱できなかった。新人戦が終わって糸が切れて、そこまで堪えてたものがダメになった。
起きてしまったことも、自分の気持ちの変化も、仕方がないことなんだから、もっと自分と向き合えばよかった。
それでも、ちゃんと教習通っておけば、あの時1週間も休まなかったら、ちゃんと横着せずにカッターを使っていたら、バイト続けてたら、浮かれたりしなかったら、って思ってしまうのも事実で、それはやっぱりまだ私の中にある弱さなんだろうなと。
全ての自分の甘さがあの時に露呈して、それに耐えることも向き合うこともできませんでした。

心の問題、とは言ったけれど、このときに踏ん張れなかったのは、1番は私がウインドサーフィンを好きではなかったからです。
そして、好きでないものに対して努力できるような精神力や信念が私にはなかったから。そのことに気づいていなかったから。(この文章を書きながら初めて気づいていることもいっぱいあります。話がチグハグなのは、それを足したり消したりしてるから。書くことで、整理しながら決着をつけている、そんな感じです。)


このときちゃんと練習していれば後輩に引け目を感じてしまうほどリザルトを落とさなかっただろうし、予選通ったんだろうと思うと、この時の自分に怒りが湧きます。

一方で、当時の私にとって部活は恐怖で、他も全て苦しくて逃げ場がなかったから、しょうがなかったんだろうな、とも思います。(唯一の癒しはiATでした、相談のってくれてありがとう!みんなで卒業旅行しようね!)
物心ついた頃から私の中に住み続けている、もはや一部になってしまっている呪いがあるのだけれど、いろんな不安定さからそれが私の中を満たしてしまって、その影響が1番モロに出ちゃったのがウインドでした。

ぐちゃぐちゃの床で、電気もつけっぱなしで寝てしまうことが多くて、朝は当たり前に具合が悪くて、朝発はなかなか行けませんでした。そのくせして、前はこのぐらいの熱できたのに、本当は平気なのにって夜は自己嫌悪で、翌朝また布団からでれなくて。本当に、「練習しなければいけない」朝が来るのも見えないものに追われる夜も、嫌でした。
今となっては、全て「あの時に比べたらマシ」って笑えるんですけどね。


その時の原因はウインドだけではなくて、でも他のものは最低限しなければいけないこと・自分の意思だけではどうにもならないこと、であったとするならば、最優先で辞めるべきだったのはウインドだった。ラウンディングでも最下位走り続けて、更に言えば(今だから言えることですが、)セッティングもまともにできないようなボロ道具で乗っているぐらいのやる気のなさで、周りにも迷惑だったと思います。(3回生の間も迷惑だったとは思います。やる気はあっても結果が出せなければ意味がない。そういう場所だったはず。)




でもやめられませんでした。


それは、同期には言ったことがあるけど、「途中でやめることはかっこ悪い」という私の中の悪い概念のせいです。
何回もりきやさんに「相談したいことがあります」って文字打つところまでいって送信できなかったのは、私に勇気がなかったからで、体裁を気にしていたからです。
「次の目的もないのに辞めるのは逃げだ」っていう後ろめたさもあったし、今まで、そういう選択肢はいけないんだって、なんとなく刷り込んできてしまったんだと思う。それに、続けることにだって意味があるんだって思いたかった。
〈この時初めて気付いたけど、私は何かより魅力的なものを始めたり頑張るために既存のものを捨てることはできたけれど、何もないのに1度始めたことを辞める、ということが苦手なんだとおもいます。というより、今までの人生でしたことがない。むしろ、あえて逃げ道を塞ぎながら生きてきた節がある。(これが不器用ってことなのかも)
だけど、向いていないものや辛いことを続ける、というのは、成長を阻害することでもあるし、自分が壊れてしまうこともあると思う。だから、向いていないと思ったらきっぱりやめるとか、本当にヤバいときには「逃げる」という選択肢を持てるようにならないといけない。この先の目標です〉

そうやって、居座り続けました。



そうこうしているうちに時間が経っていて、他の問題も解決し始めて、「私は辞められないんだ」と諦めがつくようになった。そこからはなんだか肩の力が抜けて、3回生で辞めるなりに、前向きにウインドサーフィンできたつもりです(ウインドに意味を見出せなくなっていたのは、当時行きたかった未来のためには3回生で引退しないととてもじゃないけど間に合わないという現実に気付いたから、というのが大きかったです。最初から4回生まで続けてなんとか結果残してやるというつもりだったので)。周りから見たら相当甘かっただろうけど。
予選に落ちたらもう部活に行けないと思っていたけど、当日泣いたら案外けろっとしていたのは、そのときから「引退するときに後悔しないようにしよう」っていう意識があったからなような気がします。



もう1つの辞められなかった原因は、自分のいた場所が京大ウインドサーフィン部だったから。



いろんな(ウインド以外の)人に相談して、「やめた方がいいんじゃない?」「やめても大丈夫だよ」って言ってもらったのに結局やめられなかったのは、この集団に身を置きたかったからなんだと思う。うまく言えないけど。
それが、なんというか、きっとこの3年間の全て。バカな私の中のゆずれない部分だったのかなと。


だから、もう1回4年間この大学で過ごせるってなったらアカペラするし留学するだろうけど、もう1回19歳の春に戻せるのなら、また京大ウインドサーフィン部を選んでしまうと思う。
ここは、そういう存在でした。


めっちゃネガティヴなこと書いているようにみえるんですけど、ウインドサーフィン部に入ったことは後悔していません。さっき書いたように、私はこの中に居たかった。
普通にレースとしてウインドサーフィン楽しい(3〜8mに限る)し、後輩とか同期の成長見ると嬉しいです。楽しめてなかった頃の自分、もったいないな…

それに、団体優勝できて、嬉しかったです。



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3年間の区切りであると同時に、これは9年間の区切りでもあるなぁってなんとなく思ってます。
9年間、1番濃く付き合ってきたのは部活の人たちだったから、それ抜きで私を語ることはできない。部活を通して私は人間になりました。


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(中1の時入っていた水泳部は、妥協で入ってしまってあまり思うところがない、、)

中合唱部は途中入部しました。送別音の演奏を聴いた時、「私は歌わなきゃダメなんだ」って衝動に駆られた。辞めることが苦手で人見知りな私が、それでも新たな場所に飛び込むという選択肢を取りました。

本当は、入学当初から合唱部は念頭にありました。なのに体験すら行けなかったのは、自分が音痴だという自覚があったから。それぐらい、歌は好きと同時に、コンプレックスでもあった。やっぱり入部当初の私はとても下手で、最初個人指導してくださっていた先輩も困った顔をしていて(優しい先輩でした)、本当に申し訳なくなりました。


そんなだったけど、数ヶ月でNコンメンバーに入れたときは、すごく嬉しかった。
〈これが多分私の中で1番の成功体験で、あのときの方法や考えていたことをウインドに応用できればよかったのだけれど…
経験もなく途中入部した自分が劣っているのは当たり前で、「追い付こう」っていう気概があったのに対して、スタートラインが同じウインド入ったときは、「どんどん離されてく…やっぱり運動向いてないんだ」って、比較してただただ焦って潰れていってしまったのがよくなかったんだろうな。本当に、自分を見てなかった。〉

毎朝音楽室に一番乗りして、昼休みのために給食も時間内に食べられるようになって、家に帰ってもピアノに向かった(私が超早寝早起きするようになったのはこれが原因です 笑 朝部活が始まる3時間前には起きておきたかったし、喉がほぐれている夜に歌って頭が回る朝に勉強するのが1番よいと思ったから。) 。休みの日も絶対1番最後まで残らないと気が済まなかった。

最初はただ足を引っ張らないように、同期に追いつけるように必死に始めたことは、気づいたら2年間習慣になっていて、そのことが私に自信をくれました。
それ以上に、ハモれるようになっていくことに、自分の声が太さと深みを増していくことに、夢中でした。



普通に「自分がんばった!」みたいに書いているけれど、頑張れたのはみんなのおかげで。最初の頃、下手な私につきあってハモってくれたり、見てくれていた同期のみんなには頭が上がらない。
それに、当時人見知りの最盛期でクラスの中でも浮いていたし、学年でもまぁ変な噂が流れていた私を受け入れてくれたことに感謝しかありません。
好き!って屈託なく言ってハグしてくれる子たちに、心をほぐしてもらった。
最初の頃、すごいくすぐったかったけど嬉しかったです。

ここで緊張しないでいられる空間ができて、私はだんだん柔らかくなっていけたと思う。


そんな仲間と全国大会へ行けたことがやっぱり1番嬉しかったことです。
顧問の先生が変わって、最初はお互いに不安だったと思う。それでも信頼を築きあげて、みんなで神戸の空を見れたことが嬉しかった。(学校の都合で、私たちは顧問の先生が3年とも違う代でした。その中で3年連続全国に行けていたのは、本当にすごいことだと思う、、)
明日が最後かもしれない、という中部支部前日に先生が歌ってくれた3月9日を聴いてみんなで号泣していたこと。翌日1位の演奏できた時、まだみんなと歌える時間を延長できた時の喜び。
そして、心待ちにしていた神戸の空と、あの「最後」という念のこもった合唱は、今でも鮮明に思い出せます。
定期的にDVD見直すけど、演奏も、先生も含めた仲の良さの伝わる撮影風景も、めちゃくちゃ好き 笑(あのほのかちゃんのインタビュー神すぎませんか)

本当に、後にも先にもない経験をさせてもらいました。



なんでかわからないけど、附中合唱部のことは、すごく感覚的な記憶が多いです。
朝、こもった音楽室の窓を開けた瞬間に入ってくる空気の清々しさ。
陽が射してきらめくピアノ。
斜腹筋するときの廊下の冷たさと暗さ。尾てい骨の痛み。
女の子たちの甘い匂い(変態チックだけど結構共感者いるはず)。
結果発表で隣にいる仲間が握ってきた手の痛み。
音楽室の倍音
ホールに響き渡る残響。

こういうものは、写真やDVD以上に、死ぬまで私の中に痕跡を残しているんだろうなって気がします。


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高校は最初っから長野高校行って合唱班入るんだって決めていました。
偏差値云々より、合唱のために長野高校行きました。

コンクールの数曲を煮詰めていった中学とは違って、1日で数曲音取らないといけないのはやはりそこまで音の感性のない私にとっては大変だったし(3年間で200曲近く歌っているのではなかろうか)、60人もの大所帯とは違って特に男声の人数は少なくてコンクールは苦労したけど、仲の良くて信頼できる仲間ができました。
同期みんなで引退できて嬉しかった。あれだけハードな環境で同期11人、誰1人やめずってそうそうできることじゃない。

これは、ちょっとうざいぐらいに個人に関わってきてくれた顧問の先生と、心を開示するという合唱の性質(合唱は信頼性とか集団の雰囲気というのが、もろ演奏に出るから、本音でぶつかるしかなかった。人数が少なければ少ないほど。あと、曲や歌詞の解釈をする中で、自然とお互いの中身が暴かれてしまう感じがする。大口開ける、という無防備な行為でもあるしね)、そして曲決め始めなんでも徹底して納得するまで話し合う風土のおかげだと思います。


その話合いを1番割いたのが定期演奏会で、その中でも企画ステージで、それを作り上げる中心にいれたことは、とても幸せでした。
曲決め、キャスト選びから始まって、曲順、つなぎのセリフ一字一句、効果音、照明、小道具、立ち位置、衣装、ダンス、全て考えるのはまぁ大変だったし、個の強い3人(主に2人)で毎日のように険悪な雰囲気になった時期もあったけど、とても充実感がありました。
それに、班室で教頭先生に見つからないよう息を潜めたり、親には言えないような時間までサイゼで作業したりとか、変なテンションで笑いが止まらなくなったりとか、これぞ青春という感じに酔ってた節もある 笑
定演前の数ヶ月、家族より誰よりも一緒にいたよね。

いっつもダラダラ喋る私が、あの打ち上げでなんで簡潔に終わったかって、それはもう、喋ることの優先順位がわからなすぎたから。言いたいことがいっぱいありすぎたから。
後輩先生含め、みんなで作りあげたものを、そこに一瞬の形として残せたことが、とても嬉しかった。落ち込んだときに定演のDVD見て笑い泣きするのが、好きです。
それと、あのときの達成感は、私の好きなことを、人のためにできることを、教えてくれました。


合唱班で1番思い出すことは、「言葉」かもしれません。それも、感動的な引退の挨拶とかそんなんではなく、日常の。
練習の中で出てくる意味わかんない歌い方のイメージとか、
ミーティングした後の雑談とか、
その中から生まれた合唱班ワードとか迷言とか。
定演のアドリブ場面とか最高。
もう、あの癖の強い人たちが混ざり合う空間、退屈するわけがなかった。

あとは、その人の性格そのものが強く焼きついていて。
久々に会ったら、その人の中の新しい部分とやっぱり○○だなぁっていう部分を見つけるのがとても楽しい。


今でも弱味見せられるし、私のことを誰よりもわかってくれている人たちなんだなぁって思ってます。
(私の死ぬまでにやりたいこと100選に、また11人で歌うっていうのがある。どこかで叶えさせてほしいな。みんなの職種柄、難しいことは百も承知だけど)


そして班活で燃え切って、いろいろ思うところがあって、京大めざしました。
数ヶ月間班活しかしてなかったから、成績はボロボロだったけど、ビックリするぐらいうまく切り替えられました。結局微妙に足らずに1年目は落ちちゃったけど。

同じ志望校いなくて、閉鎖的で、人の悪口聞きながら1人でお弁当食べていた浪人期、頑張れたのは本当に合唱班の誰かと会える数ヶ月後を目標にして息をつないでいたからです。大袈裟じゃなく、ね。(他のコースに数人仲良くなれた人はいたけど、自分のコースの人とは仲良くなりたいとすらとても思えなかった…)
あとは、後輩を指導しに行くことで自己肯定感をあげたり息抜きしてたかな 笑



(ここまで熱入れて合唱のこと書いておいて、なんで合唱続けなかったの?って思われるかもしれないけど、入りたい合唱団かミュージカルサークルが近くにはありませんでした。自分の大学だけでなく、他の関西の大学や、社会人の団体も調べたけど。どうしても、中・高ほどの熱意・レベルを持っているところがなかった。自分で作るっていうアイデァは当時持ち合わせていませんでした 笑)


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そこで受かった京大で、ウインドサーフィン部に出逢いました。
散々書いたように、この3年間で自信になるようなものは何も、積み上げられなかったです。

性格的にも、合唱やってた時ほど中身同じ、共感できる、って人はいなくて。個人競技だし。
同期とか、いやもはや先輩後輩含めて全員ウインド入ってなかったら、友達にならんわ。キラキラしすぎてるし。ただの別世界の人。(そういう世界と交れてよかったなぁーみたいな他人行儀な感想も、今持っています)
そもそも体育会系というものに合わないんだと思う。
ストイックとかそういう意味ではなくて。(サークルだから緩い文化系だから礼儀がなってないみたいなマウンティングはめっちゃ嫌いです…) フィーリング的に。

でも、ここにはあたり前に努力できる人たちがいて、自分を信じ切る人たちがいて、有言実行無言実行する人たちがいて、やるべきことを全てやれている人たちがいて、尊敬しています。同年代でこんなに尊敬できる人たち、初めてでした。
「個」でここまで強い人たちが揃っている集団は、なかなか無いと思う。

あと、ウインドに入ったときに「また全国大会を味わってみたいな」って気持ちがちょっとあって。自分自身ではそこに全く届かなかったけど、団体戦で優勝して、そこに関わらせてもらえたことが幸せです。


最後のモラトリアム、自分の成長の場としては失敗したのかもしれないけれど、うーん、なんというかな、ここにいれてよかったって思うから、それでいいんかなって。
この文章書いてて、途中、救いようなさすぎてヤバいってなったんですけど、文章汚い!ってなって書き直しているうちに、もうちょっと自分を見つめられるようになってきて(結局書き散らかしていて文章はまとまってません 笑)。ここも1つの居場所なんだなぁって思えるから、この3年間は意味があったのだと。

それに、今、将来のことを考えていると、これは長い私の時間の中の1つだって思う。うまく言えないけど。
モラトリアムが最後だからって、「本気でできる最後のチャンス」をうまく活かせなかったなぁ、というつもりはないです。(新歓のPVだか誰かの言葉にそんな文句があったような気がしないでもない。すみません。)
ここでのことは、私の一部になっていくんだなって、その先にある自分を見たいな、って、そんな感じの気持ち。(うーん、強がりっぽいかもしれないですね。)

どうしても、この3年間が正解だったんだろうかって考えちゃって苦しくなるときもあるんですけど、多分まだ今はどっちでもないのかなと。この先の私次第なんだという感じがする。この3年間のことを無駄にせず、私が幸せだと感じれるようになったら、そのときにきっと正解になるんだろうなって。思想強いですかね 笑


今年も同期は続けているし、正規練行くし、まだウインドサーフィン部は私の中で過去になりきってはいない。あと5年したら、どんな形で残っているのだろうと思うと、楽しみです。


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こうして振り返ってみると、私、ずっと部活に支えられてたんだ、成長させてもらったんだって改めて思います。
そして、それは人に恵まれていたからで、9年間そういう形で人と巡り会わせてくれた「部活」というものが、好きです。他で間違えていたとしても、人に関しては、何も間違っていなかったと思う。
9年間も、こんな生活を続けられたことが幸せです。

それと、部活特有の、「仲間」っていう関係がすごく気に入っています。とある人が色紙に「最初合わなすぎてどうしようかと思ったけど」的なことを書いてくれたのだけれど、まさにそれだなって。
お互い気にくわないところがあっても、同じ方に進んでいく、その中で気付いたらお互いを受け入れている、そんな関係が好きです。


大学だけじゃなくて、高校も勉強と両立できなくてやめようと思った時期もあったけど、部活やってよかった!っていうのが素直な感想。



そして、最近は、次はその場を仕事にするんだろうなって思い始めています(すみません、院進のために引退したけど就職します)。
こうやって過ごしてきたのに、これから先なんとなくで生き続けるのは耐えられないというか 笑
本来部活は「学業の傍」のものなんだろうけど、生活の中心は、部活でした。
次にはさすがに「サークルの傍で仕事をする」なんて甘いことはできないと思う。大学の勉強ですら、部活の傍ではうまくできなかったから。
だから、今まで「部活」の立ち位置にあったものを、今度は仕事にします。


今は、次の居場所とか、何か「本気」の場所を作るための準備期間のつもりです。息抜きも兼ねながら。


正直、私は不器用な方だし、その上知識の蓄積も勉強も止めてしまったせいで、「それで京大生?」って思われてしまうような人間だと思う。
甘いことを考えていると思われても仕方ないと思う。


それでもこの先40年、大半の時間を「忙しい」「やりがいがない」なんて思いながら過ごすのはつまらなすぎるでしょう?

時間が止まったまま


玄関のドアを開けて、「ただいま!」と声をかける。




そうだった。ソラはもういないんだった。


玄関を開けて耳をすませてしまうとき、
畳の部屋の戸を閉めてしまうとき、
床に荷物を置きかけて慌てて持ち上げるとき、
呆然とする。

もう、私に駆け寄ってくる彼はいない。
彼が入ってこないように戸を閉める必要もない。
彼が洗濯カゴから靴下を取っていくことももうない。

私の中に彼はまだ住み続けている。



ソラは、私が2回生の時に亡くなった。
実家を出て彼のいない家で暮らすことに慣れていたから、お葬式が終わって京都の家に帰ってくると、そこにあった日常はいとも簡単に取り戻すことができた。
火葬する直前まで私は泣き続けていたはずなのに、京都に帰ってしばらくするとまた、彼のことは何も考えず部活に明け暮れる日々に戻った。
京都にいる間、1年生のときも、あれより後も、私は同じようにソラを思い出さない。


3年近く経って、きっと、私の両親も、家にソラのいない生活が当たり前になっているはずだ。



それなのに、私の中では、ソラはまだ長野の家に住み続けている。
実家に帰ると、その事実に打ちのめされる。



あと何回帰省したら、天国に送れるんだろうか。